藤花一拝乙夜覧

好きなだけ好きな書物を詰め込んで

#004 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

ー善なき世界で謳われるジョワ・ド・ヴィーヴ。

 

しばらく、記事を書くことができないほど、ひどく意識が混濁した状態にあった。日中も、夜も一日中眠る日と一日中眠れない日を繰り返していた。寓話的な眠り姫の比喩とは、あながち間違いもないのかもしれない。数少ない友人とも自然と疎遠になる。励ましの言葉をいただくのはありがたいが、それを返すことができないのがつらい。ただ…なんとか社会につなぎ留められていると感じるから、うれしい。信じたい嘘、効かないクスリ、帰れないサヨナラ。とかく、回復を期するほかにあるまい。

 

本の保存には悩む。とりあえずダンボールに仕舞うが、防湿の観点からはあまりよろしくない。かといって捨てるには忍びない。例えば夫婦喧嘩して本を半分にしろと言われれば、残すべき本を選ぶくらいはできる。しかし実際に捨てたいかと言われれば手は伸びないものだ。結局、堆く積まれていく。

わたしは自宅の大量の本に困って処分の基準の仮説を立てた。ブッカーをかけたり虫干しをするような手間が惜しくない本は残してよいのではないかと。愛情を注げる本は、主観的にしろ客観的にしろ、手元に置いておく価値があるんじゃないだろうか。わたしは『ユリシーズ』の面白さがほとんどわからない。イーガンの『万物理論』も結局最初をちょっと読んだきり止まってしまっている。しかし、それでもそれらの本を持っていたいと思う。個人の選好と客観的な価値基準のマッシュアップ。これが書斎を耕すんじゃなかろうか。好きな本だけで固めた空間も幸せだろう。しかし、それだけでは自分が理解できない本の価値を失ってしまう。だから、本棚は自分の大事なものから、他人にわかって自分にはわからない価値を、恐れを抱きながら掘り起こしていく空間のような気がしているんだ。

 

本題に入ろう。

 

悪童日記(原題: Le Grand Cahier)』はハンガリーの作家アゴタ・クリストフのデビュー作。とはいえ原語はフランス語であり、作者はハンガリー動乱の際に西側に亡命し、フランスの出版社により出版された。(つまり、彼女にとっては敵性言語での執筆ということになる)クリストフがフランスの主要な出版社に原稿を送り付け、そのうちの一社の編集長が『悪童日記』をいたく気に入って、即無修正で発行されたという逸話がある。ちなみに原題は「大きいノート」くらいの意味らしく、『悪童日記』は邦訳の際つけられたタイトル。この改題は双子の兄弟が戦争の中を生き抜きながら、自力で生き抜く術を学び、勉強を続けるためにノートに書き残していくというストーリーを踏まえた素晴らしい意訳である。続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』とともに、悪童日記三部作にかぞえられる。3冊ともハヤカワepi文庫で出版されている。

 

舞台は国境近くの小さな町。作中では地名はおろかどんな国なのか、現実で起こっていることなのかすらはっきりしないが、作者であるクリストフの幼少期の記憶がもととなっているため、ハンガリーの小村クーセグと一般的には考えられている。当時のハンガリーはドイツ軍が進駐しており、作中の「将校」もドイツ軍人であると考えられる。主人公となる男の子の双子は疎開のため、おばあちゃんのもとへ連れてこられる。このおばあちゃん、ドケチで不潔な格好をしている上、夫殺しの疑惑から「魔女」と呼ばれるなかなかやべー人…たぶん、「となりのトトロ」とか「西の魔女が死んだ」的ほのぼの展開にはならなそうだ。そのせいか、双子のことも殺人鬼の卵だの人殺しだの呼ばれていることもある。

 

しかしこの物語で特筆すべきは、双子の生き意地の汚さ、生の活力の図太さにある。双子は、生き抜くため飢えに耐える訓練や痛みに耐える訓練、精神を鍛える訓練などさまざまな練習をする。喧嘩になれば剃刀を持って戦うし、脅迫やゆすりもする。

そして、この物語全体は、双子の日記を羅列した独特の叙述形式で語られる。彼らは、「日記に書くことはすべて真実でなければならない」というルールを課す。だから、感情を表す言葉は「非常に漠然としている」から、双子が観察したことだけを記述する。そのため、物語では一切を率直に、間違いなく語っていることになる。この文体は、(おそらく)クリストフが自身に課しているであろう文章創作上の制約であるとともに、子供による(ケガレを知らない)単刀直入な戦争の風景であり、二人の子供というミクロな視点からの第二次大戦というマクロを描き出すことを可能にしている。そして、おそらく双子にとっては、これは「要らざる希望や絶望を期待しない」、という過酷な現実下での処世術なのである。アウシュビッツではクリスマスの直後に死者が急増した(収容者がクリスマスには解放されるという無根拠な希望を持ったため)というV.E.フランクルやエディ・ジェイク*1の叙述を知れば、それらの希望は過酷な状況下では有害にすらなりうるということが、双子はわかっていたのではないだろうか。

 

おばあちゃんも村人からやべーやつというか危険人物みたいな扱いをされていることは間違いないのだが、それでもどこか魅力的な人物なのだ。ある少女を双子の従姉として預かった(匿った)ときの一節を引用する。

ぼくらの従姉は、労働も、学習も、練習もしない。彼女はしばしば空を眺め、ときどき涙を流す。おばあちゃんは、従姉はけっしてぶたない。彼女をののしることもない。彼女には働くことも要求しない。何をしろともいわない。彼女には、ちっとも話しかけない。(「ぼくらの従姉」より引用)

まあ、おばあちゃんは彼女をめぐってとんでもないことをしでかそうとする(ネタバレは避ける)のだが、この一節はどこか印象的なものがある。まるで、従姉を自分と関係がないかのように扱っている。おばあちゃんは誰にでも憎悪を振りまく人物ではないということが示唆されている。それに、戦後、双子が学校に通わせられそうになったときに双子と協力して芝居を打つ(「学校再開」)など、双子と同じように、自分の望みを果たすこと、生き抜くことに精力的な部分がある。ただの狂人と判を押すこともできるかもしれないが、それだけに限られない、双子と似て、また別の魅力ある人物なのだ。悪人なのは間違いないと思うが。彼女の最後のエピソード(「おばあちゃんの宝物」)は物語のクライマックスを飾る。

 

すべての物語の最後は、どんな要素を出してもネタバレになってしまう。なのでただ、衝撃的だということだけを告げておきたいと思う。きっと、すぐに続編『ふたりの証拠』が読みたくなるはずだ。

 

余談だが、ハヤカワepiには優れた作品が多い。ハクスリーの『すばらしい新世界』もそうだが、オーウェルの『一九八四年』、ゴールディングの『蠅の王』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のように、何度読んだっていい作品揃いのレーベルだ。わたしの古典好きもあるけれど、これは信じていいことだ。あんまり古典ばっかり推すようになると、無意識に「お前らこんな基本的なものも読んでないのか~?教養ないなあ(笑)」みたいな厭味ったらしいやつになってしまうので、俗物根性という誹りは甘んじて受けなければならないと思う。教養とはまずはにかみなのである*2から...使い古されたクリシェではあるけど、警句としては十分だ。知識を開陳することで刹那的には多幸感を得られるが、それは雑学好きやクイズゲーマーにやらせておけばよい。問題は知っている知識が良く連関され、知らないことに対して、好奇的に挑戦する精神を維持することだ。わからないものはわからないと受け入れること、そして「自分なら最後にはきっとわかる」とある種楽観的に向き合うことだ*3。わたしもそぞろに本を読む井蛙の類だ。いつかきっとバチが当たりそうだ。

しかしまあ、新しい作品が矢継ぎ早にやってくる世界で、面の皮厚く古い作品の話をする人間がちょっとくらいいたって誰も気にとめやしないだろう。しかしそれは、鋭利な観察をなしてはじめてできることだ。

 

そういった意味でも、『悪童日記』の悪ガキどもには、頭を下げて教えを求め続けるだろう。大人になってなくすもの、なんてもんじゃなく、もっと重苦しい、根源的な何かを探す。彼らはきっと、そんなわたしを無視してくれる。

 

わたしは、それを見てむしろほっとする。

 

 

*1:アウシュビッツ収容所の生存者。『世界でいちばん幸せな男』(河出書房新社)の筆者

*2:太宰治の言らしいのだが、亀山勝一郎を典拠とするものもあって、よくわからない。よくわからない言葉を使うのは、ちょっとはずかしい。

*3:いまこれは餓鬼の時分のわたしに向けて書いている。今思えばずいぶんと嫌味な小童だった。大やけどをせずに生きていられるのは両親や周囲の躾と配慮によるものが大きいだろう。偉そうにものを話すと、何が正しいのか検証しようがなくなる。そのツケは自分に返ってくる。まったく汗顔である

#003 フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

ー無慈悲な自然に、静かに喰い尽くされる。

 

医師より、うつの疑いが強いとの診断を受けた。だから薬を飲んでいる。だがこれを飲んでからは胃がむかついて気分がよけい悪くなる。良薬口に苦しとの俗諺もあるがひどい文明もあるものだ。坂口安吾の言葉を思い出す。…原子バクダンで百万人消しとばしたって、歯痛の一つ直せないのに何が文明だ、バカヤローと。だからといってソーマ*1を発明されても困るけど。

 

まあこんなときにはメランコリックな本の話をしよう。

 

今ならラスコリニコフの心情がわかるだろうと思って『罪と罰』を読み始めた。これはよい副作用である。病との付き合いかくの如く難し。鬱っぽくなって以来、シェイクスピアの悲劇やドストエフスキーを読んでいると家族や周囲から悪化を心配されるのだが、実際のところそれは間違っているように思う。

 

暗いときはヘンに明るい話なんてするもんじゃない…心を奮い立たせるのは、波を立てるのはむしろ惨劇である、悲劇である。みんなが大人になっても復讐譚が大好きなのはそういうわけである。ボケないためにも鮮烈な衝撃も必要なのだ。でなければ、悲劇はタチの悪い悪趣味な物語でしかない。

 

『黄色い雨』(原題: La Lluvia Amarilla)は、スペインの作家フリオ・リャマサーレスの長編。1985年の作で、世界的評価を受けた作品である。地方を舞台とするペシミスティックな文学というやや珍しいタイプの作家だ。現代ラテンアメリカ文学はそんな詳しくないから話すことができない。さすがにマルケスも読んでないのに語るのは各方面から怒られそう…というかまだよくわかってないのだ。だからまた勉強させていただく。『百年の孤独』もいつかちゃんと読む。

 

『黄色い雨』の舞台はスペインの山奥のアイリェーニェ村。1970年まで実在していて、既に廃村となっている。主人公の「わたし」は一人、朽ちて行く村の中で犬とともに生活している。物語は、その「わたし」が死んだ後の村のシーンから始まる。全ての情景が、「〜だろう」という推量で書かれているのもこのためである。

 

物語はずっと陰気である。「わたし」は、息子たちは村を出て行方不明、妻は寂しさに耐えられず首をくくって死に、村人たちも一人、一人出て行ったなか、一人で生活している。大雪に閉じ込められて飢えたり、毒蛇に噛まれて死にかけたりするなかで、死ぬことの幻影と恐怖にとらわれていく。それを象徴するのが作中に登場する「黄色い雨」で、きわめて大事なプロットになっている。(あ、この作品はSFじゃない。一応、念のため。)次々と解き放たれる「わたし」の記憶は蔓草とともに孤独な村に絡みつき、木材が朽ちて建物が崩れていく、その終末感が「わたし」の死という内的終末と重なっていく。人間が自然のルールに取り込まれ還元される、虚無の詩美。その詩美こそ『黄色い雨』の美しさだ。

 

なお、第一長編である『狼たちの月(Luna de lobos)』は、『黄色い雨』の繊細さには一歩及ばないがそれでも優れた小説だ。山の中に逃げ込んだ敗残兵の物語。テーマには『黄色い雨』に通底するところがあるし、登場人物の名前がはっきりしているので読みやすさはある(アンナ・カヴァンの『氷』みたいに登場人物に名前がない小説は好きだが、読むのが大変だ)。こっちも好き。

しかし『狼たちの月』は現在絶版状態にあり入手はなかなか困難だ。2022年5月に『フリオ・リャマサーレス短篇集』が邦訳されているので、同作家に興味があるならば参照されたい。

 

フリオ・リャマサーレスはけして華々しい作家ではない。小説に激しい展開を求める者には、この作家を読むのは辛いと思う。フリオ・リャマサーレスという落ち着いた語り部が、涸れ果てようとする時間と空間を、鋭い観察で書き出してくれる。弱い人々を美化することもなく、率直に、彼らの時間をつむぎ、文学的空間に引き伸ばし拡張する。陰鬱にして虚ろ、しかしその空間と時間は見事に満たされている。読書体験は一種禅味を感じさせるほどに洗練され、山水画家のような文章を紡ぐ作家だ。梶井基次郎とか好きなら相性はいい。わたしがそうだったから。

 

 

 

*1:ハクスリー『すばらしい新世界』に登場するやばいくらい気持ち良くなるお薬。

#002 筒井康隆『あるいは酒でいっぱいの海』

ー瞬間に咲くファルス。あるいは災な物語。

 

このところ体調がわるくてずっと床に寝ている。精神が失調していつ寝るかわからない生活をしている。感動する力がだんだんと薄れていくのを感じるたび、騒がしい精神が恋しくなる。気に病んだときは気に病んだときのための物語が欲しくなる。尾崎放哉の句集、ソフォクレスアンティゴネー』、コーマック・マッカーシーザ・ロード』を取り出して読んだ。救われはしないがすこし、気分がましになる。まあ、死んだりはしないだろう。ピンチョンもジョイスもまだ読めてないんだから。

胸元に小説を抱えさせて勝手に幸せを感じさせておけばよい。読書はむしろ心を不安定に掻き乱す。むしろそれぐらいの劇薬でなければ心を摶つことはない…

 

 

閑話休題

 

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は筒井康隆の第三作目のショートショート集だ。筒井康隆は『時をかける少女』『虚航船団』なんかで有名な小松左京星新一に並ぶ日本SFの先駆者…って有名だからその説明は要らないか。ブラック・ユーモアが込められた機知のある作品が多い…好き嫌いは分かれそうだな。わたしは躁鬱気質なので筒井作品は大笑いして読むか心痛を強めるかのどちらかである。健康な諸兄は程よく楽しむのがよい。映画として発表されている細田守時をかける少女今敏『パプリカ』から入るのもよいだろう。

 

わたしはショートショート、あるいは短編小説を読むのを苦手としている。実のところ読書するときに楽なのは中長編の方だと思っている。実際、読書速度を計測する機会に測ると長文読解の方が2割ほど速度が速くなっている。なので、300ページとか400ページくらいの小説はだいたい読みやすい。だから小説を読まない友人に勧める小説はそれくらいの長さのものばかりである。しかし、これは一般的な傾向に反しているようで、どうやらわたしは変な体質らしい。…変人の自覚はあるけど数値で示されるとなぜか腹が立つ気がするのはわたしだけ?

 

どうも、わたしは作品ごとに頭の中で描いていた世界を切り替えるということが苦手らしい、という仮説を立てた。星新一も時々取り出すが、大体本棚の漬物石である。ショートショートは意外と読むのがつらい。とはいえショートショートという形式には利点があって、余計な情報を一切捨象して、アイデアの切れ味だけで勝負ができる。短編小説に冗長な表現をする余裕はない。作者の鋭さにすべてがかけられている。わずか数ページだが、毎回が真剣勝負なんだ。

それに、作家自身の問題意識が深掘りされて、のちの優れた長編作品になったりする。短編小説のアイデアが後々長編のプロットとして機能するようになる。伊藤計劃の『From the Nothing, with Love』(『the Indifference Engine』収蔵)とかはこのタイプに該当する。

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は20作以上が収蔵されているので、ここで全体を語り尽くすことはできない。しかし、オススメの作品をいくつか紹介しておこう。

 

『睡魔のいる夏』は静かに終末を迎える世界の話。登場人物の主観的な内的終末を描いた作品。ほんとうに夏の日に新型爆弾が爆発して、静かに死んでいく。ちょうど今頃の、うだりそうな夏の午後昼下がりの、気だるげに引き伸ばされた時間感覚と、どこか重なりあい共鳴する。世界の終わりを描いたいわゆる終末ものはネビル・シュートの『渚にて』とかで既に発表されているが、いわゆるニューウェーブ的な内的世界の終末を描くJ.G.バラードが頭角を表す前にこのような作品が発表されているのは驚くばかりだ。この静かな惨劇は大好きである。ブラッドベリの短篇集『十月の旅人』に収蔵されている『夢魔』や『昼下がりの死』に似た雰囲気がある。

 

『底流』はテレパシー能力を持ったエリートとそれを持たない一般人との間の階級社会を描いた筒井康隆の同人時代の作品。エリートである町君がテレパシー能力で苦しむ。確かに文体は以降の作品に比べて良いとはいえない…だけど、一般人の意識の抉り出し方が実に重厚で、テレパシーで読み取られていく憎悪の感情に圧倒され打ちのめされるという小説内表現が現実化したような鋭さを帯びてくるのが不思議なところだ。でも今の時代だと、Twitterを眺めるときに深淵を覗いている気になるので理解はしやすい作品かもしれない。(筆者は3年ほどで耐えられなくなりアプリを消した。)テキストには人格がついてまわる。人間はときおり病気になる。わたしのように。そんなときは、自分だけに宛てたテキストを書く。宮沢賢治の『告別』のように、空いっぱいに自分の言葉を語るといい。

意識と言語をめぐる短編として、長谷敏司『allo, toi toi』(『My Humanity』収蔵)と合わせて勧めたい。同人作品は好きでよく漁る。この場所では作者が好きなことがだいたい不器用に語られる。作品が審美されることはほとんどないけれど、作者と読者を密接に繋ぐ重要なピースのように感じている。まあ、そんな読者、作家からすりゃいい迷惑かもしれないけども。

 

『二元論の家』はフロイトの無意識的な衝動の現実化を表現した作品。大学教授の娘を学生二人が取り合う話…で、無意識のリビドーや攻撃衝動が彼らの世界に幻覚的に現れてくる。なんともエロティックで悪夢的な描写が特徴的な作品だ。オチも二元論的に完璧な人間だってこーなりますよと諷喩的メッセージが込められていて、やはり根底には黒めのファルスがある。

 

表題作はデイビットスンの『あるいは牡蠣でいっぱいの海』のオマージュ。いいよねこういうの。なお初出では『海水が酒に…』とかいうセンスのカケラもないタイトルに編集され発表されていた。わたしは静かに怒った。タイトルに込められた意味が失われるのは翻訳モノだとよく起こる現象だ。今回のケースは編集者が勝手に変更しただけなんだけど、タイトルを訳せないなら原題そのままにしとく、というのもひとつの勇気だと思うぞわたしは。とはいえ、1970年代くらいと今では英語に対する受容の違いというのも確かにあるもので、翻訳は生き物みたいなものだ。あまり怒りすぎてもどうしようもない…が、「これしかない!」というタイトルに気づいたときの喜びは一塩ものだ。タイトルが秀逸な作品として、小川一水『フリーランチの時代』がある。端的にはハインラインのオマージュなのだが、作者が込めた意味に気づくと小説がマジでおもしろくなる。タイトルは読解のキーワードなんだ。そして、作者が読者に一番最初に伝えられる物語でもある。よくよく考えると、こういったタイトルの改変やファンタジー物の長いタイトルは、資本主義的な人格の切り売りに近いのかもしれない。要は本を開く前から作者が手招きしているみたいなものだ…ま、詳しくは知らないけれども。

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は去年8月に河出文庫から新版が出ている。(前回も河出文庫の本を紹介したけど、回し者じゃないよ、むしろ岩波やハヤカワの方が多いよ)筒井康隆の作品としてはややマイナーな方に属するけれど、本作は作者の持ち味が濃く出た作品。気になったら、ぜひとも一読してほしい。ショートショートだから短いし…でも読むのは大変なんだショートショート

実際のところ、読書はそういった「わたしだけかもしれない」という自惚れを検証し、否定し、異化された外部のテクストから、自己と普遍的な部分を見つけ出し、観測する作業じゃなかったか。

 

 

 

#001 マイクル・コニイ『ハローサマー、グッドバイ』

―20世紀青春SF小説のマスターピース

 

今週のお題「SFといえば」

 

パラークシ-ブラウンアイズ。わたしの心を捉えて離さない理想の少女。

 

 “その女の子は小さくなんかない―僕よりほんの少し背が低いだけで、同い年で、名前は―ぼくは絶対に一生忘れたりはしない―パラークシ-ブラウンアイズだ。”

 

 イギリスの作家マイクル・コニイが一九七五年に発表した『ハローサマー、グッドバイ』(原題 Hello Summer, Goodbye)は地球外の惑星を舞台とした青春SF…なのだが、これは天体SFでもあり、海洋SFであり、戦争ものでもある、スーラの点描みたいにいろんな要素が三〇〇ページ前後のしなやかな少女の肢体に収まった複雑な小説になってる。マイクル・コニイは20世紀に活躍した小説家で、『ハローサマー、グッドバイ』はその作風の頂点にある作品である(本人もインタビューで、一番好きな小説としてあげている)。文体は平易でありながら深い考察と情動に富んだ作品であり、SFの入り始めにぜひ読んでいただきたいと思い、今回記念すべき第一回目に選定した。コニイのブログで公開されていた続編の『パラークシの記憶』とともに河出文庫より発表されている。

 

複雑といっても別に小難しい話が出てくるわけではない。単純に、主人公ドローヴとブラウンアイズの青春恋愛小説として読むだけでも読むに値するクオリティであるし、それだけで十分楽しめる小説である。事実わたしも一回目はブラウンアイズを必死に追いかけてそうやって読むのが精いっぱいだった。しかし、二回目、三回目と読むにつれ、ストーリーの奥底に隠れていた本性がやってきて、だんだんと豊かさは増してくる。これがマイクル・コニイの小説の完成度の優れた点だろうと思う。実のところ、こういった複層的な読み方ができるメディア作品は文化的要素としての傑作である。12歳の少年少女と、45歳の大学の文学教授が一緒に見て楽しめる作品というのは、一切関係のない他者を作品の文化的要素を媒介として結びつけるという意味において、文化的価値がある、ということになる。具体例で話そう。本の話はもうちょっと後にするので、必要なければ次の段落まで飛ばしていただきたい。要は文化作品としての面白さとは『メタルギア』なのである。(といってもわたしはスネークイーター作戦にしか参加してないが)メタルギアはステルスアクションというゲームジャンルを確立した面白いゲームである。普通に隠れながら双眼鏡で索敵しながら麻酔銃を撃つだけでも楽しい。しかしメタルギアの世界にはアメリカとソ連の対立、リチャード・ドーキンスミーム理論などが組み込まれていて、それらを理解した上で遊ぶことが面白いのだ。それはただ単に遊ぶことは質的に違う。同じ「面白い」なかでも、意味しているものは全然違うということがありえるのだ。ドーキンスを知っていることになんの意味がある、だからなんだと言われれば、まあ…それまでである。生物学者か哲学者でもない限り、ドーキンスの理論を知っていることの実際的な意味はあまりない。しかし、こういった無駄な知識は、生きることをとても面白くする。駐輪場や銭湯の鍵の番号で遊び始める。素数判定をしてニヤッとしだす(傍からみたらそうとうおかしなヤツなので、どうか放っておいてほしい)。知識には、こういったほどよい心地よく持続するほのかな幸福を提供する能力がある。わたしら一般人にとって。

 

閑話休題

 

『ハローサマー、グッドバイ』に話を戻そう。この小説は上流階級の公務員の息子ドローヴ少年と、パラークシという街の少女ブラウンアイズとのひと夏の恋物語である。二大国アスタとエルトの戦争のさなか、ドローヴ少年は両親に毎年のように避暑地である港町パラークシへと連れていかれる。なお、ドローヴくんの両親である父親のバートは強権的な性格で、母親のフェイエットも下流階級を見下してたり戦時下の物資割当制をガン無視して買い物したりというなかなかの問題人物。ドローヴ少年はそんな感じの不和な家庭環境に過ごしている。それでもブラウンアイズに会いたいので気持ちを押し殺して両親についていく。パラークシで出会った人たち、そしてブラウンアイズとともに岬を探検したり、船に乗って魚釣りをしたりしてひと夏を過ごすんだけど、政府の中で実はとんでもない陰謀が進んでいて…という話。どういう陰謀かは重大なネタバレになるのでやめておく。初見のラスト五十ページの急転直下の展開はほんとうに最高なので、ぜひ体験していただきたい。(実のところ、わたしは『ハローサマー、グッドバイ』のWikipedia日本語版記事の執筆にかかわっている。百科事典という性質上意図的に秘密を隠すべきではないのでネタバレ部分も書いてしまったのだが、それを後悔する気持ちとそれでも面白いから読んでほしいという気持ちが混とんとしている。)

 

 まああまりとりとめなく語り続けてもまとまりがなくなってしまうだろうから、本作の魅力を三点紹介しよう。

 

  • 卓越したSF設定

本作の舞台はスティルクという惑星であり、まわりにフューと呼ばれる太陽と、死の惑星と呼ばれるラックスがある。なので登場人物はエイリアンなのだが、ほぼ挙動は人間なのであまり気にしなくてよい。とはいえ、ここの世界の人たちには特徴があって、寒さが極端に嫌いだということがある。寒さにさらされ続けると発狂する。主人公の叔母は寒さで発狂して死んでいる。それにFreezingやFreezerといった単語は罵倒語として使われている。池や沼には獲物を氷の触手でとらえる変な動物がいるし、そして夜に寒さとともにやってくる惑星ラックスは最上級の罵倒語と、気候と言語が結びついているのである。そしてこの不思議な天体関係は『ハローサマー、グッドバイ』というタイトルとのダブルミーニングになっているのだが(多分)、それは重大なネタバレなのでここで割愛。ここら辺の謎はどちらかというと続編の『パラークシの記憶』I Remember Pallahaxiで語られる。

もう一つ重要なのは粘流(グルーム)と呼ばれる現象で、これは一年のうち夏の間に海水が蒸発して粘り気を帯びた流れになる現象。この時期は普通の船が動かなくなって、グルームスキマーという平底の船で航行する。そしてこの現象はパラークシの人々を団結させる一つの力になっている。ほかにも蒸留液というアルコール的な燃料による蒸気機関、精神感応能力を持った哺乳類のロリンといった、魅力的なSF設定が出てくる。確かに、たくさんのガジェットを持ち込むとSFはリアリティが増すのだが、あまり多すぎると読者の想像力が追い付かなくなったりストーリーラインがごっちゃになったりする。天体・海洋・動物、これだけのクセ強な設定を詰め込んで話がだれないのはけっこうすごいことである。しかもそれらのすべてが重要なストーリーに関わってくるので、無駄がない。ブタとニンニクと太麺を全部ぶち込んだ二郎系ラーメンのような奇跡のバランスである。そして最初の展開と最後がしっかり結びつくSF史上最高レベルのどんでん返し。これがたまらない。

 

  • 魅力的なヒロイン:ブラウンアイズとリボン

 ヒロインの好みは読者の性癖に依存する。文学批評の世界において、絶対的な価値基準はどこかにあるが、それでも小説の好き嫌いは人によって違うし、同じ人間が読んだって時に評価が変わってしまうものだから、そう気にしすぎることはない。嫌いなものや自分がよくわからないものに隠れた価値に気づくという瞬間は、わたしはとても好きだ。だから、好き嫌いが分かれるというのは決して嫌いな話ではない。しかし、この話もわたしの性癖が多分に含まれていることはあらかじめ謝っておかなければならない。しかし、性的な表現をあからさまに書くことは物書きのタブーであるので、できるだけ直接的な表現は避けるから安心していただきたい(あからさまに書きたいときは官能小説を書いてみるに限る)。本作でドローヴくんが付き合うことになる女の子は何人かいるのだが、メインキャラクターであるブラウンアイズとリボンだけあげておこう。

 

 ブラウンアイズはパラークシの酒場兼宿屋〈黄金のグルームワタリ鳥亭〉の娘。同年代の他の子供と比べると控えめで落ち着いた性格。茶色の髪の毛と瞳が特徴的な女の子。胸がちょっとだけあるという少女と女性の間のアンビバレントな感じが無垢だけど性的魅力を感じさせて好き。そして裸足が絶対かわいい(これは妄想)。ただ、ドローヴ少年の両親はドローヴとブラウンアイズの付き合いを快く思っていなくて、近くにはリボンという魅力的な女の子。やきもち焼いちゃうの本当にかわいくてすき。でも、政府とパラークシの街が対立するにつれ、ドローヴとブラウンアイズの関係は街の象徴的な存在になっていく。二人はうまく小細工をしてグルームワタリ鳥亭で一緒に生活するんだけど、そこからのブラウンアイズちゃんはマジで大胆になってて好き。両親をごまかしてお部屋にお誘いしたり、だれも見ていない海まで一緒にボートで漕ぎ出したりと。少女というキャラクター持つ特質である無垢さ、甘酸っぱい恋愛感情、必死さが最大限描きだされている。ファンタジー物の村娘系ヒロインが好きなら正解に近いヒロインではないかなと。

 

 リボンはドローヴがブラウンアイズに再会したときに一緒に居た少女。作中でもはっきり美人って言われてて、ドローヴの友人ウルフくんもベタ惚れの子。でも性格と口が悪くて、初見で読んでるときは正直なところブラウンアイズの引き立て役なんだろなあ…と思ってた。でも実のところリボンは両親に自分が美人だと言われ続けて育ってきたという背景があって、自分の性格の悪さを自覚してるところがある。ある事件がきっかけでリボンとドローヴ少年は二人きりになるのだけど、そこでリボンはドローヴと話しているうちに自分のことを反省して、彼を信頼し始める。まあ読めば読むほどいい女なんですよリボンちゃん。その事件のあとははっきりものをいう性格は残ったまま、ちょっと丸くなる。そしてドローヴくんがブラウンアイズにベタ惚れしてるのも理解してる。リボンとドローヴの別れのシーンで、ドローヴが「君のことは好きだった、ちょっとだけ」って言うんですよ、もうここのリボンとドローヴの感情がたまらなくセンチメンタル。正ヒロインではないけれど、彼女がいなかったら『ハローサマー、グッドバイ』の世界はずいぶん寂しくなったでしょうね。

 

  • ドローヴと周囲の環境の関わり方

 とまあここまでならただのあまあま恋愛小説で終わりなんだが、『ハローサマー、グッドバイ』で外してはならないのがドローヴ少年の成長。最初は両親のせいか冷めた感じなのにどこか幼い印象を受けるんだけど、政府とパラークシが対立して政府の担当官であるメストラーとパラークシのリーダー的存在のストロングアームの両方に関わるにつれ、だんだんと大人っぽくなってくる。これって民主主義の本質みたいなところを作者は祈りを込めて描いたんじゃないかな。最後、政府とパラークシは決定的に決裂する。ドローヴは親やほかの役人から、「自分たちこそが勝ち組なんだ」って伝えられるのだけど、ドローヴはそれを否定した。ドローヴくん、自分を縛っていた束縛から自由になってるんだ。これってすごい成長だと思わないだろうか?そして、ドローヴとブラウンアイズはなんとか人々の分断を切り抜けようとする。少年の恋愛が、だんだんと大人のものに変わっていく物語でもあるんだ。ま、ゆうべはおたのしみでしたね的な意味かもしれないですけど…

 

『ハローサマー、グッドバイ』は人気があったおかげで30年ぶりくらいに2008年に改訳され河出文庫より新版が出ているので、ぜひ読んでほしい。山岸真氏の翻訳はとても読みやすくなっており、またカバーイラストがブラウンアイズに変わっている。いまだにわたしにとってはSF小説界最推しヒロインである。1960~70年代のイギリスSFは良作だらけなので、これからもぼちぼち書かせてもらおうと思う。

 

 



#000 HellO’ Brave New World

こんにちは。「minoriのたのしくふるよにを」でボードゲーム記事を書いていたミノリです。もしそちらから来てくれたのならありがとう。読書のこの場で出会ったのならそれもまたよし、ぜひともボードゲームの方も見ていていただけるとありがたい。

文章を書いてることが楽しかったので勝手に好きな本の話をします。わたしが読んでるのはだいたい古典なので紹介の必要とかはないと思いますが、わたし自身の言葉として本を語りだすには(この空間に限られず)それなりにわたしのための物語の蓄積が必要になり、要はこの空間はわたしが独り言をぼやき続けるためにDesign-ateするわけであります。人間死にかけると魂のよすがが欲しくなる、別に魂の存在を信じちゃいないんだけど。そして虚空の誰かに本を放り投げることにした。

 

要は共感から切り離された寂しい観測者が死んだ猫について物語をし始めるのです。

 

ほめてはくれねえだろうな。誰も。

 

こんにちは。すばらしい新世界

そして、語り部の話を聞いてくれる、あなた方に感謝を。

 

(レファレンス・リスト)

#001 『ハローサマー・グッドバイ』(マイクル・コニイ:イギリス)

#002 『あるいは酒でいっぱいの海』筒井康隆

#003『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス:スペイン)

#004『悪童日記』アゴタ・クリストフハンガリー

#005『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(小川一水・執筆中)