藤花一拝乙夜覧

藤花みのりちゃんコレクションの本を語るこーなー

#000 HellO’ Brave New World

こんにちは。「ミノリの盤上遊戯録」でボードゲーム記事を書いていたミノリです。もしそちらから来てくれたのならありがとう。読書のこの場で出会ったのならそれもまたよし、ぜひともボードゲームの方も見ていていただけるとありがたい。

文章を書いてることが楽しかったので勝手に好きな本の話をします。わたしが読んでるのはだいたい古典なので紹介の必要とかはないと思いますが、わたし自身の言葉として本を語りだすには(この空間に限られず)それなりにわたしのための物語の蓄積が必要になり、要はこの空間はわたしが独り言をぼやき続けるためにDesign-ateするわけであります。人間死にかけると魂のよすがが欲しくなる、別に魂の存在を信じちゃいないんだけど。そして虚空の誰かに本を放り投げることにした。

 

要は共感から切り離された寂しい観測者が死んだ猫について物語をし始めるのです。

 

ほめてはくれねえだろうな。誰も。

 

こんにちは。すばらしい新世界

そして、語り部の話を聞いてくれる、あなた方に感謝を。

 

筆者は病に伏せているため、更新は不定期です。

 

(レファレンス・リスト)

#001 『ハローサマー・グッドバイ』(マイクル・コニイ:イギリス)

#002 『あるいは酒でいっぱいの海』筒井康隆

#003『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス:スペイン)

#004『悪童日記』アゴタ・クリストフハンガリー

#005『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』小川一水

#006『闘争領域の拡大』(ミシェル・ウェルベック:フランス)

#007『はじめてのスローセックス』 (アダム徳永)

#008『荒潮』 (チェン・チウファン:中国)

#009『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』(空えぐみ)

#009 空えぐみ『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』

あっつーい...暑くて干からびそう…

 

 

今年は本当に暑くて、もう日中ほとんど外に出たくありません。生まれはそこそこ南国の方なんですが、身体が外に出ることを拒絶します。高温高湿度、日本の夏は知的活動には向きませんね~と、外山滋比古先生も本でおっしゃっていたのを思い出します。湿度が高いと保存している書籍も傷まないか心配です。はやく大きな書架を作りたい...

 

とまあ、偏西風蛇行の影響は続きそうですし、人間がお天道様をどうこうすることなどできませんので、せっかくなら気分よく過ごしましょう。心頭滅却すれば火もまた涼しといいますが、私はそれほど悟っちゃいませんので、おとなしく愚痴りながら本を読むことにします。

 

今日紹介するのは空えぐみさんの『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』(新潮社)です。現在連載中の漫画で、アニメ化が決まったこともありタイミング的にいいなと思い持ってきました。堅苦しい小説ばかり紹介すると思いました?…うちの本棚はそんなマジメなもんじゃないことはセックスの話し始めた時点で察してるでしょう?(#007参照。とはいえ、かさばっちゃうので漫画は売ってしまうか電子書籍で買うことが多いのですが)

 

まあ私と沖縄はちょっとした縁、というか私が沖縄料理大好きなんですね。タコライスも、てんぷらも、ダンキンドーナツも...(※米国企業)特にタコライスは大好物で、ごはん3合分くらいならペロッといけちゃいます。沖縄の食文化は栄養にとんだ食材が多く、海藻類や豚肉料理の文化も歴史的に豊かなんです。フルーツもおいしいですしね。それで惚れこんじゃって、沖縄のことはいろいろな歴史を勉強しちゃいました(もちろん、安全保障の問題も)

 

ま。それはさておき本作は、父親の転勤で突然東京から沖縄本島に引っ越してきた中村照秋くんが入学した沖縄の高校で慣れない文化に戸惑いながら生活していくストーリー。当然回りの高校生はうちなーぐち(沖縄の方言)混じりまくりで理解できず、クラスメイトも内地(本州)から来た見知らぬ生徒にはなかなか話しかけづらく、苦難な前途...かと思いきや、そこで話しかけてくれた女の子が喜屋武(きゃん)陽菜ちゃん。明るく活発で、日焼けがかわいいちょこんとした女の子が話しかけてくれて、だんだんとクラスに打ち解けることができていく...これはボーイミーツガールか...?と思いきや、喜屋武ちゃんから発せられるのはガチガチのうちなーぐち。中村くん、翻訳不能!!

 

しかし横から喜屋武ちゃんの言葉を翻訳して説明してくれたのが、大人しめな比嘉夏菜ちゃん(沖縄だと比嘉姓はバチクソ多いので、下の名前でかーなーと呼ばれてます。喜屋武ちゃんはひーなー)。比嘉さんは中村くんのことが気になってるんだけど、内気で話しかけられずにいたところを喜屋武ちゃんの翻訳をすることで中村君に話しかけるチャンスを手に入れます...!こんな感じですすんでいくのが本作。

 

本作の魅力はなんといってもこれでもかと詰め込まれた沖縄ネタの数々!それもそのはず、作者自身が沖縄に移住した体験談と、沖縄の人への取材がしっかりもとになっており、異文化ラブコメの見た目して地味に教養レベルが上がっていく作品です(あ、そんな堅苦しくないよ)。そしてネタはマジでディープであり、沖縄で暮らしたことがない人にとってはまさに予測不能な展開です(私も知らないネタがたくさんあって期待を良い意味で飛び越していきました)方言ネタだけじゃなく、

・沖縄には花粉症がない?

・台風前にみんなが借りるTSUTAYAのビデオ

沖縄県民は海で泳がない?

・「沖縄そば」が違法だった話

・戦争を生き残った「カンカラ三線

など、ラブコメ抜きで面白い話がたくさんあります。もちろんラブコメ要素も面白くて、文化の違いで思いを伝えられない中村くん、同じく伝えるのに難儀する比嘉さん、そしてうちなーぐちでさらにカオスに(無意識に)かき回す喜屋武ちゃんと、コメディタッチな要素もしっかり押さえてきます。個人的には比嘉さんをサポートしたりからかったりするトリックスターの安慶名(あげな)さんがかわいいと思う(←メインキャラより曲者のわき役とかモブキャラの方が好きなミノリちゃんの性癖)

 

そんなわけで既刊7巻の本作品、この暑い時期にいかがでしょうか。

 

 

 



 

#008 チェン・チウファン『荒潮』

『アステリズムに花束を』ってアンソロジー読みました?百合SFアンソロなんですけど…えぇ…偏見なく普通にSF小説として面白いので読んでほしい本です。以前紹介した『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(小川一水)も同書が原作です。今日紹介するのはアンソロジーに参加した作家のひとり、チェン・チウファン(スタンリー・チェン)のデビュー作『荒潮』(原題: Waste Tide)です。

 

この本との出会いは『アステリズムに花束を』の『色のない緑』という作品の良さみが深かった(いわゆる言語SFで、モニカという研究者の死の原因を解き明かす作品です。Just Monika.)ため、丸善まで探して手に入れた作品です。

 

舞台は近未来の中国、世界中から廃棄される電子部品を処分するシリコン島と呼ばれる島。人力でプラスチックと金属を分別したり酸洗いして資源に変えます。そ、人力。この島では「ゴミ人」と呼ばれ、島を支配している御三家に搾取され、島民からも不可触賎民として扱われる階級の人々が、汚染に苦しみながら生活しております。そこにやってきたのはテラグリーン社のスコットと通訳の陳開宗(チェン・カイゾン)。クリーンなリサイクル技術と有利な取引価格を提示し、御三家の一つ陳家の血を引く陳開宗とともに交渉に挑みます。しかし、どうやらスコットには別の思惑があるようで、御三家と交渉や抗争を繰り広げる中それが明らかとなっていきます。御三家、ゴミ人、テラグリーン、さらに環境保護団体や謎の組織も現れて利害関係は複雑怪奇。

 

そして、物語の重要な鍵を握るのが米米(ミーミー)というゴミ人の女の子。彼女(と保護者の文兄さん)が偶然手に入れた一つの装置が原因で、物語に大きな影響を及ぼしていきます。そして、ゴミ人たちは自らを人として扱ってもらうために、島民たちに反旗を翻します。その騒乱の中で米米はどう行動するのか…というのが本作。

 

「荒潮」というタイトルにはさまざまな意味が込められています。世界中のゴミが打ち寄せるウェイスト・タイド。潮の流れで占う観潮、その波乱の雰囲気。物語を読み終えたとき、その意味を感動すること間違いなしです。

 

本作の魅力は作者チェン・チウファンによる御三家の抗争の描写であり、知的な表現能力の豊かさにあります。作中で「血とジャングルの掟」と表現されたように、生臭いまでにシリコン島での利権闘争が描かれます。そして、単純な娯楽小説にとどまらず、環境汚染や廃棄物、それによって苦しめられる人々を克明に描いた作品です。

 

現実の環境汚染も止まるところを知りません。まさに、我々は環境と階層という混迷の海、荒潮の中に居るのです。

 

 

#007 アダム徳永『はじめてのスローセックス』

別にスケベな話がしたいわけではなく、性生活や性風俗に関するテーマの本を読むことは、面白い活動のひとつです。例えば、セックスワークの歴史を調べたり、結婚や恋愛の文化がセックスにどのような違いをもたらしているかについても調べました。しかし、やはりわたしが気になったのは「どんなセックスが一番気持ち良いのか?」という疑問でした。

やっぱり、スケベなのかもしれません。

(図書委員はむっつりスケベという風潮)

 

ただ、セックスのテクニックを紹介する文献を去年からずっと調べていたんですが、これが厄介でした。多くのセックステクニック本は雑誌のような、男性の性欲を煽り立てることが目的の物が多かった…とにかく多い。書いてあることもバラバラ。玉石混交どころか石しかないやんけ…本当に知りたいのはそこじゃない。そして、脚注がないから内容の検証もほとんどできませんでした。睡眠の仕方や食事の作り方ならいっぱい本があるのに、なんでセックスになるとまともな本が見つからないんですか…文明レベルが『カーマ・スートラ』から進んでないってマジですか?

 

ただ、調べてる途中にしくじり性教育をやってるVtuber由宇霧さんの本が出版されて、それを購入。この本は産婦人科の先生が監修してて、SF(セックス・フィクション)で膾炙してる俗説を否定してたり、男女両方の視点からセックスに取り組むことを考えてて、この二冊は日本のセックスに関する文献でも読む価値があると思う。語り口がへんな人だけど大丈夫。リンクを貼っとくのでマジメに推薦します。

 

 

 

 

 






で、その中でアダム徳永さんの「スローセックス」というものが女性にとって気持ちいいらしく、それについて調べることに。手に入る著作はほぼ購入したなか、もっとも簡潔にまとまっているのが本書。

 

1 現代のセックスの特徴は時間が短いことである。

2 その原因は忙しさとSFの誤った認識による男性の射精本位のセックスにある。

3 その結果、女性も十分に性感を得られず、そのことがセックスを苦痛で義務的なものにさせている。

 

というのが同書の認識。そして、セックスの誤った常識を覆すため、時間と射精をまず放棄することが必要であると述べている。そして、とにかくソフトに女性に触れて脳と性感帯の繋がりをつくるアダムタッチが重要なテクニックであるとされています。

 

このことはなかなか衝撃的な転回でした。女性にとっては当たり前だったかもしれないけど…射精の放棄を納得できたのは、実は理由があります。当時、うつ病の治療中だったわたしは、一時的な性的不能、要は立たないし射精できないという状態にありました(なんでそんなタイミングで調べてんだよと思われるだろう、わたしもそう思う)。しかし、なんとか性的欲求不満を解決したいわたしは、射精せずとも全身の愛撫が射精に比べてとても穏やかに気持ちがよいことに気がつきました。身体がぽかぽかして穏やかな気持ちになれたのです。同時に、射精は神経の問題で、要はアレへの刺激で自発的に出るものではない、コントロールできるものだということにも気づきました。

 

男性の射精を軸とするセックスは、女性にとってあまりにも短いようです。AVなどのSFからしか学ばなかった私たち子供のような男性には苦痛な話です。他に学ぶものがなかった昔なら仕方ないですが、わたしたちはAVはファンタジー、と割り切るべきだったのだろうと思います。「イクこと」を目的とするセックスから、「お互いに気持ちよくなる」ことを志向するセックスへの切り替え。それがアダム徳永さんのスローセックスの理論の一つです。

 

そして、「男性は女性のことに気を配る」「男性は謙虚に振る舞う」という幸せなセックスを送るうえでもっとも基礎的なことに十分に触れています。女性の幸せな温かさに満ち溢れるような本です。男性諸兄にはぜひ一度、読んでいただきたい本として、おすすめさせていただきます。

 

 

 



#006 ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』

ー性的行動はひとつの社会階級システムである。

 

好きだけど人に勧めづらい作家っていると思う。私の場合、坂口安吾、エミール・シオラン、ミシェル・ウェルベックといったあたり。人に言えないのなら、じゃあここで書きゃあいいじゃないかと思い立ったので、さっそく書いていくことにしよう。

なお、本作には女性差別的な主張ととれる内容もあるので、そういうのに敏感な方は読まないことをお勧めします。念のため。

 

『闘争領域の拡大』(原題:Extension du domaine de la lutte)は、フランスの作家ミシェル・ウェルベックのデビュー長編にあたる作品。『服従』の人って言ったら伝わるかな。イスラーム系の政党がフランスの大統領選で勝利するって話。エンジニアとして成功している主人公と、その上司ティラスンがメインの人物になる。主人公(ぼく)は色恋に対してまったく関わりがなく、ティラスンは容姿の醜さと品性の下劣さから、女性関係を持てないでいる。話のメインは、その二人の出張の話になる。

 

ティラスンの女性関係を持とうとする努力は、実を結ばずに終わる。出張で乗り込んだ列車に乗り合わせた女子学生、バーで一人の女の子、誰にアタックしてもうまくいかない。主人公はそんなティラスンのことを軽蔑しながらも観察している。そして、動物小説を書きながら、自分の考えを展開していくところがこの小説の主軸になっているんです。ウェルベック自身も触れていますが、この作品は普通の小説のルールに従っては書かれておりません。主人公の「ぼく」の仕事ばかりの生活と、「ぼく」の観察から得られた哲学的省察がメインです。

 

「ぼく」とティラスンはそれぞれの理由で恋愛に関わっていない。「ぼく」は仕事や出張先でいろいろな女性と出会うものの、それらの出会いを快く感じていない。愛に懐疑的であるようにすら見えるが、愛の存在は感じている。その視線は、冷たさすら感じるが、どこか現実的な同情を感じざるを得ない。ウェルベックの語りは老練な哲学者のようで、しかし掲示板の落書きのような共感を感じさせてくれる。小説を読んでいるはすが、存在しないはずの人物のエッセイを読んでいるよう。古く立ち枯れた神木。そんな冷たさと暖かさがある。

 

本書が着目するのは、資本主義の恋愛面への侵入。資本主義の選択のシステムが、セックスに侵入していく過程を描く。なるほど、自由恋愛すなわち選択の自由の獲得。そして、恋愛的弱者の淘汰と搾取というわけだね。知り合いに出会い系アプリを見せてもらったことがあるんだけど、写真とプロフィールを見て、興味あるかないかクリックするだけ。究極的にはそれで選別が完了する。結婚と恋愛、セックスの結びつきが日本とちょっと違うフランスでは、婚外のセックスへの見方は変わるだろうけど、共感できない話じゃない。今、見合い結婚の数がちょっと回復してると聞いたことがあるけど、ある意味恋愛の資本主義化への無感覚な抵抗なのかもしれないね。

 

「ぼく」はティラスンとの出張の間、ある事件をきっかけに精神に混乱をきたし病んでしまう。果たして、「ぼく」はどのように生きていくのか、対話を楽しんでほしい。

 

どうでもいいが、私は作中、地下鉄の落書きのメッセージ「神が求めたのは不平等であって、不当ではない」が大好きだ。ウェルベック社会学的批判が凝縮された詩的な一文だと思う。

 

 

花粉症つらい。

なんでスギ同士のセックスに人間が巻き込まれなきゃならんのだ、こんちくしょうめ。

 



 

#005 小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』

ー古くて狭い宇宙の片隅から。

 

好きなんですよね、小川一水の作品。作品集を書棚の一列にずらりと置いております。遥かな広がりを持つ空間を描き出すことにとても優れている作家であると思います。外的宇宙が登場人物の内面と化学反応を起こしてその衝動が花開く。そしてラストは境界線を超えて更なる広がりの世界へ読者を導いてくれる爽やかなまでの疾走感。「一陣の風が吹く」エンディングという比喩がこれほど合う作家もそういない。だから、このブログを始めたときにも絶対に小川一水のことは紹介したいと考えていた。だって好きなもんで。

 

でも、そんな作家を紹介しようというとき、どの一冊を持ち出せばよいか…オタク特有の困りごと。最初に読む作品は、その後の読書体験に重大な影響を与える…ある作家の本を他人に貸したり勧めるときは、本気で悩む。別に読んでいることへの優越感を感じたいとかそんなわけはなく、本当に悩ましい。作家の作風、作品のクオリティ、相手の好み、読書能力を踏まえて、一番マッチしそうな作品を手渡す。読書は作家と読み手の間の空間に生じる体験だから…もしかすると、その人とその作家の関わりの最後の一冊になるかもしれないから。だから、うまくいったときは、我が子を誉められたように嬉しくなる。自分の嗜好が受け入れられたと思える。作家と読者の時間が新たに紡がれたように感じる。嬉しいのはリアルでもネットでも同じことだ。

 

そんな中で、一冊目にはこの本を選んだ。わたしならこれを推す。

 

『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』。

 

核融合ロケット漁業百合SF小説」と、SFをまったく読まない友人にひとことで説明したことがある。嘘はついていない。宇宙をロケットで飛びながら漁業をする百合SF小説である。もともと『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』に収蔵された同名の短篇作品が人気を博し、長編化され発表されていたものだ(初見の方は、独立した長編の方から読んで差支えない)。元となる短編が発表されたのは2019年で、ちょうど『天冥の標』が完結したすぐあとに書かれたものだ。だからか、書き味が一番脂が乗っているのにごてごてせず澄み切った作品のように感じる。豊かなのに、なぜか一切がクドくない。そして、わたしが小川一水という作家の世界にほれ込んだ作品でもある。

 

物語の舞台はFBB(ファット・ビーチ・ボール)を中心とした辺境の星系。ここら辺に移住してきた人たちは足りない資源を昏魚(ベッシュ)という宇宙を泳ぐ鉱石でできた魚的サムシングを捕まえることで補っている。ここ漁業要素。そのためにピラーボートという船で漁をしている。このピラーボード、AMC粘土というすげえ物質でできており、なんとこの粘土、操縦者の想像力で船の形を変えられるうえ、燃料にもなるというチートじみた代物である。なんだこれほしい。船の形を変えて網なんかを作ることでベッシュを捕まえている。

 

漁をするためのピラーボートは二人乗りで、船の形を保つデコンパと操縦係のツイスタのコンビで漁をする。基本的には漁をするのは男女の夫婦であり、デコンパが奥さん、ツイスタが旦那さんという役割分担が決まっている。そして、漁獲は十二氏族というそこの住民たちで分配しあうという社会。氏族同士は大会議を定期的に行って運営され、漁獲が少ない氏族は次の会議まで豊かな漁場を譲ってもらえる。この分配システムがうまくいってるおかげで資源が乏しいFBB星系でも運営ができているというわけ。

 

さあ、物語のメインとなるのはエンテヴァ氏という氏族の元で暮らすテラちゃん。長身ロングヘアでへんな笑い方する。ふへへって笑う。かわいい。想像力があってデコンパとしての適性はすごくいいのだが、いかんせん想像力豊かすぎて船をめちゃくちゃな形にしてしまう。そんな感じでテラちゃんの船を乗りこなせる人がおらず、結婚できずに振られまくってる。おじおばからの結婚しろ圧力を笑ってごまかしながら苦悩中。そんな中、エンテヴァ氏の氏族船に一人の女の子が紛れ込んでくる。こちらがダイオードちゃん(表紙右の小さいほうの子)。銀色のスーツがかわいい。そしてテラちゃんに出会っていきなりテラちゃんの船に乗らせろ、とのこと。行動力バケモンじゃん。ダイオードの氏族船は遠く、密航者として送り返しもできないため漁をすることに。

 

しかし、漁に出たのはいいものの、夫婦で漁をしなければいけないという慣習にモロ違反してるうえ、ダイオードちゃんは密航者なので氏族同士の漁獲の分配規則違反と、漁獲を役人に受け取ってもらえない。さらに小さな女の子なので役人に舐められ結局遊びの船扱いで漁船扱いしてもらえない。氏族社会にがんじがらめにされる二人の女の子が、なんとか奮闘するお話が本作です。本作の魅力はなんといってもテラとダイオード、二人の女の子にあります。小さい体でもバケモンみたいな行動力と痛快な罵詈雑言で全力ダッシュするダイオード、どこかふわふわした感じだけど発想力で困難を切り抜けようと頑張るテラ。この二人のコンビが、狭い宇宙で波乱を巻き起こしていきます。

 

この作品のテーマは一言でいえば「古い社会からの逃走」にあるわけです。タイトルがランナウェイですからね。闘争ではなく、逃走。相手は社会なんで、個人ではパワーで勝てないわけです。姿かたちが見えないですからね。しかし、ただ逃避行的に逃げるのではなく、社会に抗って、自分たちだけのアジールへの逃げ。登場人物が困難な現実とぶつかって、自分たちの場所や空間を探し、作っていく。実はこれは小川作品を読解するうえで重要なテーマである、主体と環境の相克をラディカルに描いている作品なんです。『時砂の王』『老ヴォールの惑星』のような代表作も、このところを克明に描いた作品です。そして登場人物が変容した後のエンディングは本当に爽快そのものといえるでしょう。これが好きなら、きっと他の小川作品も好きなこと間違いなしです。

 

なお、続編である『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ2』もハヤカワ文庫JAより既刊ですが、個人的には『2』は続けて読まずに、しばらくこの作品の読後感を味わってほしいと思う。その上で、その味わいを変えたくないならそのまま閉じればよし、テラとダイオード、二人の続きが気になるなら『2』を読むとよい。小川一水作品の魅力はその広がりにある。なんというか、「読み終わってすぐに続きが書きたくなる」作家だ、という言葉が、わたしが贈れる最大限の賛辞だ。相変わらず舌っ足らずだけれど…ちなみに6月には3冊目が発売されるっぽいです。楽しみ。

 

 

夢見た世界は、ずっと小さかった。

狭い宇宙が爆縮し、ほうき星が飛んでいく。

 




 

#004 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

ー善なき世界で謳われるジョワ・ド・ヴィーヴ。

 

しばらく、記事を書くことができないほど、ひどく意識が混濁した状態にあった。日中も、夜も一日中眠る日と一日中眠れない日を繰り返していた。寓話的な眠り姫の比喩とは、あながち間違いもないのかもしれない。数少ない友人とも自然と疎遠になる。励ましの言葉をいただくのはありがたいが、それを返すことができないのがつらい。ただ…なんとか社会につなぎ留められていると感じるから、うれしい。信じたい嘘、効かないクスリ、帰れないサヨナラ。とかく、回復を期するほかにあるまい。

 

本の保存には悩む。とりあえずダンボールに仕舞うが、防湿の観点からはあまりよろしくない。かといって捨てるには忍びない。例えば夫婦喧嘩して本を半分にしろと言われれば、残すべき本を選ぶくらいはできる。しかし実際に捨てたいかと言われれば手は伸びないものだ。結局、堆く積まれていく。

わたしは自宅の大量の本に困って処分の基準の仮説を立てた。ブッカーをかけたり虫干しをするような手間が惜しくない本は残してよいのではないかと。愛情を注げる本は、主観的にしろ客観的にしろ、手元に置いておく価値があるんじゃないだろうか。わたしは『ユリシーズ』の面白さがほとんどわからない。イーガンの『万物理論』も結局最初をちょっと読んだきり止まってしまっている。しかし、それでもそれらの本を持っていたいと思う。個人の選好と客観的な価値基準のマッシュアップ。これが書斎を耕すんじゃなかろうか。好きな本だけで固めた空間も幸せだろう。しかし、それだけでは自分が理解できない本の価値を失ってしまう。だから、本棚は自分の大事なものから、他人にわかって自分にはわからない価値を、恐れを抱きながら掘り起こしていく空間のような気がしているんだ。

 

本題に入ろう。

 

悪童日記(原題: Le Grand Cahier)』はハンガリーの作家アゴタ・クリストフのデビュー作。とはいえ原語はフランス語であり、作者はハンガリー動乱の際に西側に亡命し、フランスの出版社により出版された。(つまり、彼女にとっては敵性言語での執筆ということになる)クリストフがフランスの主要な出版社に原稿を送り付け、そのうちの一社の編集長が『悪童日記』をいたく気に入って、即無修正で発行されたという逸話がある。ちなみに原題は「大きいノート」くらいの意味らしく、『悪童日記』は邦訳の際つけられたタイトル。この改題は双子の兄弟が戦争の中を生き抜きながら、自力で生き抜く術を学び、勉強を続けるためにノートに書き残していくというストーリーを踏まえた素晴らしい意訳である。続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』とともに、悪童日記三部作にかぞえられる。3冊ともハヤカワepi文庫で出版されている。

 

舞台は国境近くの小さな町。作中では地名はおろかどんな国なのか、現実で起こっていることなのかすらはっきりしないが、作者であるクリストフの幼少期の記憶がもととなっているため、ハンガリーの小村クーセグと一般的には考えられている。当時のハンガリーはドイツ軍が進駐しており、作中の「将校」もドイツ軍人であると考えられる。主人公となる男の子の双子は疎開のため、おばあちゃんのもとへ連れてこられる。このおばあちゃん、ドケチで不潔な格好をしている上、夫殺しの疑惑から「魔女」と呼ばれるなかなかやべー人…たぶん、「となりのトトロ」とか「西の魔女が死んだ」的ほのぼの展開にはならなそうだ。そのせいか、双子のことも殺人鬼の卵だの人殺しだの呼ばれていることもある。

 

しかしこの物語で特筆すべきは、双子の生き意地の汚さ、生の活力の図太さにある。双子は、生き抜くため飢えに耐える訓練や痛みに耐える訓練、精神を鍛える訓練などさまざまな練習をする。喧嘩になれば剃刀を持って戦うし、脅迫やゆすりもする。

そして、この物語全体は、双子の日記を羅列した独特の叙述形式で語られる。彼らは、「日記に書くことはすべて真実でなければならない」というルールを課す。だから、感情を表す言葉は「非常に漠然としている」から、双子が観察したことだけを記述する。そのため、物語では一切を率直に、間違いなく語っていることになる。この文体は、(おそらく)クリストフが自身に課しているであろう文章創作上の制約であるとともに、子供による(ケガレを知らない)単刀直入な戦争の風景であり、二人の子供というミクロな視点からの第二次大戦というマクロを描き出すことを可能にしている。そして、おそらく双子にとっては、これは「要らざる希望や絶望を期待しない」、という過酷な現実下での処世術なのである。アウシュビッツではクリスマスの直後に死者が急増した(収容者がクリスマスには解放されるという無根拠な希望を持ったため)というV.E.フランクルやエディ・ジェイク*1の叙述を知れば、それらの希望は過酷な状況下では有害にすらなりうるということが、双子はわかっていたのではないだろうか。

 

おばあちゃんも村人からやべーやつというか危険人物みたいな扱いをされていることは間違いないのだが、それでもどこか魅力的な人物なのだ。ある少女を双子の従姉として預かった(匿った)ときの一節を引用する。

ぼくらの従姉は、労働も、学習も、練習もしない。彼女はしばしば空を眺め、ときどき涙を流す。おばあちゃんは、従姉はけっしてぶたない。彼女をののしることもない。彼女には働くことも要求しない。何をしろともいわない。彼女には、ちっとも話しかけない。(「ぼくらの従姉」)

まあ、おばあちゃんは彼女をめぐってとんでもないことをしでかそうとする(ネタバレは避ける)のだが、この一節はどこか印象的なものがある。まるで、従姉を自分と関係がないかのように扱っている。おばあちゃんは誰にでも憎悪を振りまく人物ではないということが示唆されている。それに、戦後、双子が学校に通わせられそうになったときに双子と協力して芝居を打つ(「学校再開」)など、双子と同じように、自分の望みを果たすこと、生き抜くことに精力的な部分がある。ただの狂人と判を押すこともできるかもしれないが、それだけに限られない、双子と似て、また別の魅力ある人物なのだ。悪人なのは間違いないと思うが。彼女の最後のエピソード(「おばあちゃんの宝物」)は物語のクライマックスを飾る。

 

すべての物語の最後は、どんな要素を出してもネタバレになってしまう。なのでただ、衝撃的だということだけを告げておきたいと思う。きっと、すぐに続編『ふたりの証拠』が読みたくなるはずだ。

 

余談だが、ハヤカワepiには優れた作品が多い。ハクスリーの『すばらしい新世界』もそうだが、オーウェルの『一九八四年』、ゴールディングの『蠅の王』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のように、何度読んだっていい作品揃いのレーベルだ。わたしの古典好きもあるけれど、これは信じていいことだ。あんまり古典ばっかり推すようになると、無意識に「お前らこんな基本的なものも読んでないのか~?教養ないなあ(笑)」みたいな厭味ったらしいやつになってしまうので、俗物根性という誹りは甘んじて受けなければならないと思う。教養とはまずはにかみなのである*2から...使い古されたクリシェではあるけど、警句としては十分だ。知識を開陳することで刹那的には多幸感を得られるが、それは雑学好きやクイズゲーマーにやらせておけばよい。問題は知っている知識が良く連関され、知らないことに対して、好奇的に挑戦する精神を維持することだ。わからないものはわからないと受け入れること、そして「自分なら最後にはきっとわかる」とある種楽観的に向き合うことだ*3。わたしもそぞろに本を読む井蛙の類だ。いつかきっとバチが当たりそうだ。

しかしまあ、新しい作品が矢継ぎ早にやってくる世界で、面の皮厚く古い作品の話をする人間がちょっとくらいいたって誰も気にとめやしないだろう。しかしそれは、鋭利な観察をなしてはじめてできることだ。

 

そういった意味でも、『悪童日記』の悪ガキどもには、頭を下げて教えを求め続けるだろう。大人になってなくすもの、なんてもんじゃなく、もっと重苦しい、根源的な何かを探す。彼らはきっと、そんなわたしを無視してくれる。

 

わたしは、それを見てむしろほっとする。

 

 

*1:アウシュビッツ収容所の生存者。『世界でいちばん幸せな男』(河出書房新社)の筆者

*2:太宰治の言らしいのだが、亀山勝一郎を典拠とするものもあって、よくわからない。よくわからない言葉を使うのは、ちょっとはずかしい。

*3:いまこれは餓鬼の時分のわたしに向けて書いている。今思えばずいぶんと嫌味な小童だった。大やけどをせずに生きていられるのは両親や周囲の躾と配慮によるものが大きいだろう。偉そうにものを話すと、何が正しいのか検証しようがなくなる。そのツケは自分に返ってくる。まったく汗顔である

#003 フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

ー無慈悲な自然に、静かに喰い尽くされる。

 

医師より、うつの疑いが強いとの診断を受けた。だから薬を飲んでいる。だがこれを飲んでからは胃がむかついて気分がよけい悪くなる。良薬口に苦しとの俗諺もあるがひどい文明もあるものだ。坂口安吾の言葉を思い出す。…原子バクダンで百万人消しとばしたって、歯痛の一つ直せないのに何が文明だ、バカヤローと。だからといってソーマ*1を発明されても困るけど。

 

まあこんなときにはメランコリックな本の話をしよう。

 

今ならラスコリニコフの心情がわかるだろうと思って『罪と罰』を読み始めた。鬱っぽくなって以来、シェイクスピアの悲劇やドストエフスキーを読んでいると家族や周囲から悪化を心配されるのだが、実際のところそれは間違っているように思う。暗いときはヘンに明るい話なんてするもんじゃない…心を奮い立たせるのは、波を立てるのはむしろ惨劇である、悲劇である。みんなが大人になっても復讐譚が大好きなのはそういうわけである。ボケないためにも鮮烈な衝撃も必要なのだ。でなければ、悲劇はタチの悪い悪趣味な物語でしかない。

 

『黄色い雨』(原題: La Lluvia Amarilla)は、スペインの作家フリオ・リャマサーレスの長編。1985年の作で、世界的評価を受けた作品である。地方を舞台とするペシミスティックな文学というやや珍しいタイプの作家だ。現代ラテンアメリカ文学はそんな詳しくないからわからない…マルケスも読んでないのに語るのは各方面から怒られそう…。だからまた勉強させていただく。『百年の孤独』もいつかちゃんと読む。

 

『黄色い雨』の舞台はスペインの山奥のアイリェーニェ村。1970年まで実在していて、既に廃村となっている。主人公の「わたし」は一人、朽ちて行く村の中で犬とともに生活している。物語は、その「わたし」が死んだ後の村のシーンから始まる。全ての情景が、「〜だろう」という推量で書かれているのもこのためである。

 

物語はずっと陰気である。「わたし」は、息子たちは村を出て行方不明、妻は寂しさに耐えられず首をくくって死に、村人たちも一人、一人出て行ったなか、一人で生活している。大雪に閉じ込められて飢えたり、毒蛇に噛まれて死にかけたりするなかで、死ぬことの幻影と恐怖にとらわれていく。それを象徴するのが作中に登場する「黄色い雨」で、きわめて大事なプロットになっている。(あ、この作品はSFじゃない。一応、念のため。)次々と解き放たれる「わたし」の記憶は蔓草とともに孤独な村に絡みつき、木材が朽ちて建物が崩れていく、その終末感が「わたし」の死という内的終末と重なっていく。人間が自然のルールに取り込まれ還元される、虚無の詩美。その詩美こそ『黄色い雨』の美しさだ。

 

なお、第一長編である『狼たちの月(Luna de lobos)』は、『黄色い雨』の繊細さには一歩及ばないにしても、それでも優れた小説だ。山の中に逃げ込んだ敗残兵の物語。テーマには『黄色い雨』に通底するところがあるし、登場人物の名前がはっきりしているので読みやすさはある(アンナ・カヴァンの『氷』みたいに登場人物に名前がない小説は好きだが、読むのが大変だ)。こっちも好き。

しかし『狼たちの月』は現在絶版状態にあり入手はなかなか困難だ。2022年5月に『フリオ・リャマサーレス短篇集』が邦訳されているので、同作家に興味があるならば参照されたい。

 

フリオ・リャマサーレスはけして華々しい作家ではない。小説に激しい展開を求める者には、この作家を読むのは辛いと思う。フリオ・リャマサーレスという落ち着いた語り部が、涸れ果てようとする時間と空間を、鋭い観察で書き出してくれる。弱い人々を美化することもなく、率直に、彼らの時間をつむぎ、文学的空間に引き伸ばし拡張する。陰鬱にして虚ろ、しかしその空間と時間は見事に満たされている。読書体験は一種禅味を感じさせるほどに洗練され、山水画家のような文章を紡ぐ作家だ。梶井基次郎とか好きなら相性はいい。わたしがそうだったから。

 

 

 

*1:ハクスリー『すばらしい新世界』に登場するやばいくらい気持ち良くなるお薬。