藤花一拝乙夜覧

藤花みのりちゃんコレクションの本を語るこーなー

#002 筒井康隆『あるいは酒でいっぱいの海』

ー瞬間に咲くファルス。あるいは災な物語。

 

このところ体調がわるくてずっと床に寝ております。精神が失調していつ寝るかわからない生活をしている。感動する力がだんだんと薄れていくのを感じるたび、騒がしい精神が恋しくなる。気に病んだときは気に病んだときのための物語が欲しくなる。尾崎放哉の句集、ソフォクレスアンティゴネー』、コーマック・マッカーシーザ・ロード』を取り出して読んだ。救われはしないがすこし、気分がましになる。

胸元に小説を抱えさせて勝手に幸せを感じさせておけばよい。読書はむしろ心を不安定に掻き乱す。むしろそれぐらいの劇薬でなければ心を摶つことはない…

 

なんて恰好つけてみますが、威厳がないですね、あはは…

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は筒井康隆の第三作目のショートショート集だ。筒井康隆は『時をかける少女』『虚航船団』なんかで有名な小松左京星新一に並ぶ日本SFの先駆者…って有名だからその説明は要らないか。ブラック・ユーモアが込められた機知のある作品が多い…好き嫌いは分かれそう。

ショートショートは連続して読むのが意外と読むのがつらい。とはいえショートショートという形式には利点があって、余計な情報を一切捨象して、アイデアの切れ味だけで勝負ができる。短編小説に冗長な表現をする余裕はない。作者の鋭さにすべてがかけられている。わずか数ページだが、毎回が真剣勝負の作品を味わえたりする。小説とはちょっと違ったデザイン空間があるのが不思議なところ。

それに、作家自身の問題意識が深掘りされて、のちの優れた長編作品になったりする。短編小説のアイデアが後々長編のプロットとして機能するようになる。伊藤計劃の『From the Nothing, with Love』(『the Indifference Engine』収蔵)とか、後々の『ハーモニー』の下敷きになってるし。

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は20作以上が収蔵されているので、ここで全体を語り尽くすことはできない。しかし、オススメの作品をいくつか紹介しておこうと思う。相変わらず好き勝手に選んでるから万人向けなチョイスとは言えないけれど…

 

『睡魔のいる夏』は静かに終末を迎える世界の話。登場人物の主観的な内的終末を描いた作品。ほんとうに夏の日に新型爆弾が爆発して、静かに死んでいく。ちょうど今頃の、うだりそうな夏の午後昼下がりの、気だるげに引き伸ばされた時間感覚と、どこか重なりあい共鳴する。世界の終わりを描いたいわゆる終末ものはネビル・シュートの『渚にて』とかで既に発表されているが、いわゆるニューウェーブ的な内的世界の終末を描くJ.G.バラードが頭角を表す前にこのような作品が発表されているのは驚くばかりだ。この静かな惨劇は大好きである。ブラッドベリの短篇集『十月の旅人』に収蔵されている『夢魔』や『昼下がりの死』に似た雰囲気がある。

 

『底流』はテレパシー能力を持ったエリートとそれを持たない一般人との間の階級社会を描いた筒井康隆の同人時代の作品。エリートである町君がテレパシー能力で苦しむ。確かに文体は以降の作品に比べて良いとはいえない…だけど、一般人の意識の抉り出し方が実に重厚で、テレパシーで読み取られていく憎悪の感情に圧倒され打ちのめされるという小説内表現が現実化したような鋭さを帯びてくるのが不思議なところだ。でも今の時代だと、Twitterを眺めるときに深淵を覗いている気になるので理解はしやすい作品かもしれない。(筆者は3年ほどで耐えられなくなりTwitterを消した。このメンヘラめ。)

意識と言語をめぐる短編として、長谷敏司『allo, toi toi』(『My Humanity』収蔵)と合わせて勧めたい。同人作品は好きでよく漁る。この場所では作者が好きなことがだいたい不器用に語られる。作品が審美されることはほとんどないけれど、作者と読者を密接に繋ぐ重要なピースのように感じている。まあ、そんな読者、作家からすりゃいい迷惑かもしれないけども。

 

『二元論の家』はフロイトの無意識的な衝動の現実化を表現した作品。大学教授の娘を学生二人が取り合う話…で、無意識のリビドーや攻撃衝動が彼らの世界に幻覚的に現れてくる。なんともエロティックで悪夢的な描写が特徴的な作品だ。オチも二元論的に完璧な人間だってこーなりますよと諷喩的メッセージが込められていて、やはり根底には黒めのファルスがある。いろいろ溜まってるときに見る変にエロティックな夢。

 

表題作はデイビットスンの『あるいは牡蠣でいっぱいの海』のオマージュ。いいよねこういうの。(なお初出では『海水が酒に…』とかいうセンスのカケラもないタイトルに編集され発表されていた)タイトルに込められた意味が失われるのは翻訳モノだとよく起こる現象だ。今回のケースは編集者が勝手に変更しただけなんだけど、タイトルを訳せないなら原題そのままにしとく、というのもひとつの勇気だと思うぞわたしは。とはいえ、1970年代くらいと今では英語に対する受容の違いというのも確かにあるもので、翻訳は生き物みたいなものだ。あまり怒りすぎてもどうしようもない…が、「これしかない!」というタイトルに気づいたときの喜びは一塩ものだ。

タイトルが秀逸な作品として、小川一水『フリーランチの時代』がある。端的にはハインラインのオマージュなのだが、作者が込めた意味に気づくと小説がマジでおもしろくなる。タイトルは読解のキーワードなんだ。そして、作者が読者に一番最初に伝えられる物語でもある。よくよく考えると、こういったタイトルの改変やファンタジー物の長いタイトルは、資本主義的な人格の切り売りに近いのかもしれない。要は本を開く前から作者が手招きしているみたいなものだ…ま、詳しくは知らないけれども。

 

『あるいは酒でいっぱいの海』は去年8月に河出文庫から新版が出ている。(前回も河出文庫の本を紹介したけど、回し者じゃないよ、むしろ岩波やハヤカワの方が多いよ)筒井康隆の作品としてはややマイナーな方に属するけれど、本作は作者の持ち味が濃く出た作品。気になったら、ぜひとも一読してほしい。ショートショートだから短いし…