藤花一拝乙夜覧

藤花みのりちゃんコレクションの本を語るこーなー

#003 フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

ー無慈悲な自然に、静かに喰い尽くされる。

 

医師より、うつの疑いが強いとの診断を受けた。だから薬を飲んでいる。だがこれを飲んでからは胃がむかついて気分がよけい悪くなる。良薬口に苦しとの俗諺もあるがひどい文明もあるものだ。坂口安吾の言葉を思い出す。…原子バクダンで百万人消しとばしたって、歯痛の一つ直せないのに何が文明だ、バカヤローと。だからといってソーマ*1を発明されても困るけど。

 

まあこんなときにはメランコリックな本の話をしよう。

 

今ならラスコリニコフの心情がわかるだろうと思って『罪と罰』を読み始めた。鬱っぽくなって以来、シェイクスピアの悲劇やドストエフスキーを読んでいると家族や周囲から悪化を心配されるのだが、実際のところそれは間違っているように思う。暗いときはヘンに明るい話なんてするもんじゃない…心を奮い立たせるのは、波を立てるのはむしろ惨劇である、悲劇である。みんなが大人になっても復讐譚が大好きなのはそういうわけである。ボケないためにも鮮烈な衝撃も必要なのだ。でなければ、悲劇はタチの悪い悪趣味な物語でしかない。

 

『黄色い雨』(原題: La Lluvia Amarilla)は、スペインの作家フリオ・リャマサーレスの長編。1985年の作で、世界的評価を受けた作品である。地方を舞台とするペシミスティックな文学というやや珍しいタイプの作家だ。現代ラテンアメリカ文学はそんな詳しくないからわからない…マルケスも読んでないのに語るのは各方面から怒られそう…。だからまた勉強させていただく。『百年の孤独』もいつかちゃんと読む。

 

『黄色い雨』の舞台はスペインの山奥のアイリェーニェ村。1970年まで実在していて、既に廃村となっている。主人公の「わたし」は一人、朽ちて行く村の中で犬とともに生活している。物語は、その「わたし」が死んだ後の村のシーンから始まる。全ての情景が、「〜だろう」という推量で書かれているのもこのためである。

 

物語はずっと陰気である。「わたし」は、息子たちは村を出て行方不明、妻は寂しさに耐えられず首をくくって死に、村人たちも一人、一人出て行ったなか、一人で生活している。大雪に閉じ込められて飢えたり、毒蛇に噛まれて死にかけたりするなかで、死ぬことの幻影と恐怖にとらわれていく。それを象徴するのが作中に登場する「黄色い雨」で、きわめて大事なプロットになっている。(あ、この作品はSFじゃない。一応、念のため。)次々と解き放たれる「わたし」の記憶は蔓草とともに孤独な村に絡みつき、木材が朽ちて建物が崩れていく、その終末感が「わたし」の死という内的終末と重なっていく。人間が自然のルールに取り込まれ還元される、虚無の詩美。その詩美こそ『黄色い雨』の美しさだ。

 

なお、第一長編である『狼たちの月(Luna de lobos)』は、『黄色い雨』の繊細さには一歩及ばないにしても、それでも優れた小説だ。山の中に逃げ込んだ敗残兵の物語。テーマには『黄色い雨』に通底するところがあるし、登場人物の名前がはっきりしているので読みやすさはある(アンナ・カヴァンの『氷』みたいに登場人物に名前がない小説は好きだが、読むのが大変だ)。こっちも好き。

しかし『狼たちの月』は現在絶版状態にあり入手はなかなか困難だ。2022年5月に『フリオ・リャマサーレス短篇集』が邦訳されているので、同作家に興味があるならば参照されたい。

 

フリオ・リャマサーレスはけして華々しい作家ではない。小説に激しい展開を求める者には、この作家を読むのは辛いと思う。フリオ・リャマサーレスという落ち着いた語り部が、涸れ果てようとする時間と空間を、鋭い観察で書き出してくれる。弱い人々を美化することもなく、率直に、彼らの時間をつむぎ、文学的空間に引き伸ばし拡張する。陰鬱にして虚ろ、しかしその空間と時間は見事に満たされている。読書体験は一種禅味を感じさせるほどに洗練され、山水画家のような文章を紡ぐ作家だ。梶井基次郎とか好きなら相性はいい。わたしがそうだったから。

 

 

 

*1:ハクスリー『すばらしい新世界』に登場するやばいくらい気持ち良くなるお薬。