藤花一拝乙夜覧

藤花みのりちゃんコレクションの本を語るこーなー

#004 アゴタ・クリストフ『悪童日記』

ー善なき世界で謳われるジョワ・ド・ヴィーヴ。

 

しばらく、記事を書くことができないほど、ひどく意識が混濁した状態にあった。日中も、夜も一日中眠る日と一日中眠れない日を繰り返していた。寓話的な眠り姫の比喩とは、あながち間違いもないのかもしれない。数少ない友人とも自然と疎遠になる。励ましの言葉をいただくのはありがたいが、それを返すことができないのがつらい。ただ…なんとか社会につなぎ留められていると感じるから、うれしい。信じたい嘘、効かないクスリ、帰れないサヨナラ。とかく、回復を期するほかにあるまい。

 

本の保存には悩む。とりあえずダンボールに仕舞うが、防湿の観点からはあまりよろしくない。かといって捨てるには忍びない。例えば夫婦喧嘩して本を半分にしろと言われれば、残すべき本を選ぶくらいはできる。しかし実際に捨てたいかと言われれば手は伸びないものだ。結局、堆く積まれていく。

わたしは自宅の大量の本に困って処分の基準の仮説を立てた。ブッカーをかけたり虫干しをするような手間が惜しくない本は残してよいのではないかと。愛情を注げる本は、主観的にしろ客観的にしろ、手元に置いておく価値があるんじゃないだろうか。わたしは『ユリシーズ』の面白さがほとんどわからない。イーガンの『万物理論』も結局最初をちょっと読んだきり止まってしまっている。しかし、それでもそれらの本を持っていたいと思う。個人の選好と客観的な価値基準のマッシュアップ。これが書斎を耕すんじゃなかろうか。好きな本だけで固めた空間も幸せだろう。しかし、それだけでは自分が理解できない本の価値を失ってしまう。だから、本棚は自分の大事なものから、他人にわかって自分にはわからない価値を、恐れを抱きながら掘り起こしていく空間のような気がしているんだ。

 

本題に入ろう。

 

悪童日記(原題: Le Grand Cahier)』はハンガリーの作家アゴタ・クリストフのデビュー作。とはいえ原語はフランス語であり、作者はハンガリー動乱の際に西側に亡命し、フランスの出版社により出版された。(つまり、彼女にとっては敵性言語での執筆ということになる)クリストフがフランスの主要な出版社に原稿を送り付け、そのうちの一社の編集長が『悪童日記』をいたく気に入って、即無修正で発行されたという逸話がある。ちなみに原題は「大きいノート」くらいの意味らしく、『悪童日記』は邦訳の際つけられたタイトル。この改題は双子の兄弟が戦争の中を生き抜きながら、自力で生き抜く術を学び、勉強を続けるためにノートに書き残していくというストーリーを踏まえた素晴らしい意訳である。続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』とともに、悪童日記三部作にかぞえられる。3冊ともハヤカワepi文庫で出版されている。

 

舞台は国境近くの小さな町。作中では地名はおろかどんな国なのか、現実で起こっていることなのかすらはっきりしないが、作者であるクリストフの幼少期の記憶がもととなっているため、ハンガリーの小村クーセグと一般的には考えられている。当時のハンガリーはドイツ軍が進駐しており、作中の「将校」もドイツ軍人であると考えられる。主人公となる男の子の双子は疎開のため、おばあちゃんのもとへ連れてこられる。このおばあちゃん、ドケチで不潔な格好をしている上、夫殺しの疑惑から「魔女」と呼ばれるなかなかやべー人…たぶん、「となりのトトロ」とか「西の魔女が死んだ」的ほのぼの展開にはならなそうだ。そのせいか、双子のことも殺人鬼の卵だの人殺しだの呼ばれていることもある。

 

しかしこの物語で特筆すべきは、双子の生き意地の汚さ、生の活力の図太さにある。双子は、生き抜くため飢えに耐える訓練や痛みに耐える訓練、精神を鍛える訓練などさまざまな練習をする。喧嘩になれば剃刀を持って戦うし、脅迫やゆすりもする。

そして、この物語全体は、双子の日記を羅列した独特の叙述形式で語られる。彼らは、「日記に書くことはすべて真実でなければならない」というルールを課す。だから、感情を表す言葉は「非常に漠然としている」から、双子が観察したことだけを記述する。そのため、物語では一切を率直に、間違いなく語っていることになる。この文体は、(おそらく)クリストフが自身に課しているであろう文章創作上の制約であるとともに、子供による(ケガレを知らない)単刀直入な戦争の風景であり、二人の子供というミクロな視点からの第二次大戦というマクロを描き出すことを可能にしている。そして、おそらく双子にとっては、これは「要らざる希望や絶望を期待しない」、という過酷な現実下での処世術なのである。アウシュビッツではクリスマスの直後に死者が急増した(収容者がクリスマスには解放されるという無根拠な希望を持ったため)というV.E.フランクルやエディ・ジェイク*1の叙述を知れば、それらの希望は過酷な状況下では有害にすらなりうるということが、双子はわかっていたのではないだろうか。

 

おばあちゃんも村人からやべーやつというか危険人物みたいな扱いをされていることは間違いないのだが、それでもどこか魅力的な人物なのだ。ある少女を双子の従姉として預かった(匿った)ときの一節を引用する。

ぼくらの従姉は、労働も、学習も、練習もしない。彼女はしばしば空を眺め、ときどき涙を流す。おばあちゃんは、従姉はけっしてぶたない。彼女をののしることもない。彼女には働くことも要求しない。何をしろともいわない。彼女には、ちっとも話しかけない。(「ぼくらの従姉」)

まあ、おばあちゃんは彼女をめぐってとんでもないことをしでかそうとする(ネタバレは避ける)のだが、この一節はどこか印象的なものがある。まるで、従姉を自分と関係がないかのように扱っている。おばあちゃんは誰にでも憎悪を振りまく人物ではないということが示唆されている。それに、戦後、双子が学校に通わせられそうになったときに双子と協力して芝居を打つ(「学校再開」)など、双子と同じように、自分の望みを果たすこと、生き抜くことに精力的な部分がある。ただの狂人と判を押すこともできるかもしれないが、それだけに限られない、双子と似て、また別の魅力ある人物なのだ。悪人なのは間違いないと思うが。彼女の最後のエピソード(「おばあちゃんの宝物」)は物語のクライマックスを飾る。

 

すべての物語の最後は、どんな要素を出してもネタバレになってしまう。なのでただ、衝撃的だということだけを告げておきたいと思う。きっと、すぐに続編『ふたりの証拠』が読みたくなるはずだ。

 

余談だが、ハヤカワepiには優れた作品が多い。ハクスリーの『すばらしい新世界』もそうだが、オーウェルの『一九八四年』、ゴールディングの『蠅の王』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のように、何度読んだっていい作品揃いのレーベルだ。わたしの古典好きもあるけれど、これは信じていいことだ。あんまり古典ばっかり推すようになると、無意識に「お前らこんな基本的なものも読んでないのか~?教養ないなあ(笑)」みたいな厭味ったらしいやつになってしまうので、俗物根性という誹りは甘んじて受けなければならないと思う。教養とはまずはにかみなのである*2から...使い古されたクリシェではあるけど、警句としては十分だ。知識を開陳することで刹那的には多幸感を得られるが、それは雑学好きやクイズゲーマーにやらせておけばよい。問題は知っている知識が良く連関され、知らないことに対して、好奇的に挑戦する精神を維持することだ。わからないものはわからないと受け入れること、そして「自分なら最後にはきっとわかる」とある種楽観的に向き合うことだ*3。わたしもそぞろに本を読む井蛙の類だ。いつかきっとバチが当たりそうだ。

しかしまあ、新しい作品が矢継ぎ早にやってくる世界で、面の皮厚く古い作品の話をする人間がちょっとくらいいたって誰も気にとめやしないだろう。しかしそれは、鋭利な観察をなしてはじめてできることだ。

 

そういった意味でも、『悪童日記』の悪ガキどもには、頭を下げて教えを求め続けるだろう。大人になってなくすもの、なんてもんじゃなく、もっと重苦しい、根源的な何かを探す。彼らはきっと、そんなわたしを無視してくれる。

 

わたしは、それを見てむしろほっとする。

 

 

*1:アウシュビッツ収容所の生存者。『世界でいちばん幸せな男』(河出書房新社)の筆者

*2:太宰治の言らしいのだが、亀山勝一郎を典拠とするものもあって、よくわからない。よくわからない言葉を使うのは、ちょっとはずかしい。

*3:いまこれは餓鬼の時分のわたしに向けて書いている。今思えばずいぶんと嫌味な小童だった。大やけどをせずに生きていられるのは両親や周囲の躾と配慮によるものが大きいだろう。偉そうにものを話すと、何が正しいのか検証しようがなくなる。そのツケは自分に返ってくる。まったく汗顔である